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地場産業 「国包建具」


 加古川は、かつて物資運搬の重要な水路であり、江戸時代には高瀬舟が酒米を運び、イカダに組んだ木材が上流から川を下った。
 国包(加古川市上荘町)は、それらの物資の集積地であり、宿場町でもあった。
 そのような素地のなかで木材加工の建具産業が生まれ、発展していった。


 江戸時代に生まれた国包建具は華麗で繊細な手仕事の味を守り続け、時代を経た現在もその伝統を今に伝える。
 日本一の木工の里、飛騨高山にたとえられ「西の高山」とさえ呼ばれるここ国包に、どのようにして建具産業が生まれてきたのだろうか。


国包建具の発祥


 国包建具の発祥は、定かではないが、一説には文政年間(1825年頃)といわれている。
 かつて加古川は、その豊かな流れから、物資運搬の重要な水路であった。いかだを組んだ木材が丹波や杉原地方から流れを下り、秋には、高瀬舟が酒米を運んできていた。
 そして国包は、それら物資の集散地、宿場町として栄えていったのだった。そのような素地のなか、集められた木材を切る「木挽(こび)き職人」が生まれ、いつのころからか、それら木挽き職人が唐箕(とうみ)という、穀物からもみやちりを吹き分ける道具を作るようになり、さらに発展して建具を作る職人達が生まれてきたのだという。
 また国包の周辺には、三木の金物、小野のそろばん、と地場産業の職人が古くから多くいる。そのような環境も、木材という材料にも恵まれていたこの地に、建具職人が生まれてきた一つの要因でもあるのだろう。

 このようにして生まれてきた国包建具産業は、この後も東播磨地域だけでなく県下建具業界の中心として発展してゆくこととなる。


職人の町国包


 豊富な材料に恵まれていたとはいえ国包建具を支えてきたのは「職人」達であり、その産業形態も家内制手工業であった。親方・職人・弟子という徒弟制度により形づくられた専門技術者の集団。すなわち、国包は、「職人の町」としてその地位を築いてきたのだ。
 そんな中にあって、今も語り継がれている伝説的な名職人がひとりいる。

 大正の初め頃、数年間だけ国包に滞在していた「磯島」という人物である。今となっては年齢、出身地、名前すら満足にはわからないこの人物であるが、「名人」と呼ばれるその技術は見事であり、国包建具にはかり知れない影響を与えたとさえ言われている。
 仕事の技術は素晴しくて、遊び好き。しかし、いかなる時も差し金(曲がり尺)だけは肌身離さなかったというこの職人は、ある建具店の客間にその”絶品”を残している。
 書院障子と書院欄間。そのすべてが、横に渡した組木が、塵が積もらないようにと全て20度程下に傾いている。「塵返し」というウルトラCの技法である。

 このような逸話からも、国包の建具産業が、技術を競い、しのぎを削り合った「職人気質」によって支えられてきた事を、伺い知ることが出来るのではないだろうか。
 この技術にこだわった徹底的な手作りの姿勢が、大型機械を導入し、女性のパートタイマーなどを使って規格品を大量生産していった和歌山や徳島の建具産地との大きな違いなのだともいわれている。


産地の岐路


 ところが昭和40年代後半から50年にかけて、この国包建具産業にも大きな岐路が訪れることとなる。

 オイルショック後の新築住宅数のジリ貧状況の加え、プレハブ住宅の進出、アルミサッシの普及などで建具仕事の分野が減少してきたのである。
 「このままでは取り残される」という焦りが濃くなりだした産地で一つの動きがあった。
 昭和47年5月、岐阜県で開かれた建具日本一を競う木製建具展示会に6人の業者が出品したのである。国包の業者が全国展示会にこれだけ大挙出品したのは例の無いことであり、地元業者間には危惧や中傷の声もあったという。しかし「何かしなければ」と出品した6人の作品は労働大臣賞をはじめ栄誉をごっそり手中にし、国包の職人たちに”誇り”を復活させたのである。
 この出来事が、現在も「手作り」を売り物とする国包の方向性を、苦況の中にあって位置づけていったのではないだろうか。


加古川商工会議所 商工加古川 1989年6月号NO.234 特集地場産業”建具”その伝統と現在  より引用


廃線になった三木鉄道 国包駅 国包公民館に納まる書院障子 国包公民館に納まるチーク材框戸

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